なんでもない日に見えるだけ。
土曜日。1月17日。
阪神大震災から31年が経った。兵庫県のマンションの被災したときはあまりにも幼くて、恐ろしくて恐ろしくて。それでもたくさんのことを覚えている。大きな大きな本棚を小さな体で支えて、母がわたしを助けてくれたこと。粉々のガラスの破片。電気のこと。お風呂のこと。お鍋のこと。ラジオのこと。
それらのすべてが、以降のわたしの暮らしや考えにつながっていって、それで今のわたしがある。もちろん起きてほしくなかった。起きない方が絶対に絶対に良かった。だけど、あの震災がわたしに与えた影響はとてもとても大きい。
散歩をして、まつ毛のメンテナンスをしてもらった。帰って昼食を食べて、夫とたくさん話す。なんとも当たり前の日常を過ごした。過ごすことができた。31年前、母があの本棚を押さえてくれなければ、当然わたしに今日という日はなかった。毎年毎年、何年経ってもそう思う。
今日は出かける予定があったから、慌てて原稿の書き直しに取り組み、試行錯誤していたけれど、結局「明日行こう」という話にまとまり、夕飯までは自宅で過ごすことになった。
原稿と向き合うのだけれど、今日はどうにも集中力がない。「出かけるはずであったから」という甘があるのかなあ。犬の動画ばかり見てしまう。ゆるゆるのタスクの組み方をしていて本当に助かった。
原稿 → 犬 → Twitter → 犬 → 原稿 → 犬 → 犬 。
常々、私生活はなんともグウタラとしているのに、仕事に関しては「自分に厳しすぎる」「自分を追い詰めすぎている」「自分を責めすぎている」とよく言われてしまう。たくさんの人に。そう考えると、週末はこのぐらいの心持ちでもいいのかもしれないなあ、とも思えてくる。
ひとまず、1つの原稿とだけ向き合う。そして犬をいっぱい見る。それでもいい気がする。また来週頑張るために。
知らない人のお宅の、知らないわんちゃんがわたしをどれだけ救ってくれているか。知らない人にも、わんちゃんにも、わんちゃんを見せてくれるInstagramにもTwitterにもお礼が言いたい。「わんちゃんをありがとう」。こんなに心をあたためてくれる。
夕飯は、ずっとずっと行きたくて行けなかった、大好きなお店に出かけた。すごく気に入っているのだけれど、「行きたい!」という日に電話をかけるといつも満席で、しばらく縁がなかったのだ。だから今回は、週の前半に予約をしておいた。
まあるい鉄板のジンギスカン。厚切り肉が本当においしくて、臭みがまったくない。もくもくの煙のなか、夢中で食べる。そして肉を焼きながら、なぜか「出会った頃の話」をして「あのとき、本当はどう思ってたの?」なんて、ちょっと甘酸っぱい会話をした。ジンギスカンのタレはオリジナルの醤油ダレで、別に甘酸っぱくはない。胡麻やニンニクを自由に加えることもできるのだけれど、それをしたところでまったく甘酸っぱくはない。ネギが大量に入っていておいしいタレだ。久々にお気に入りのお店に来られて、気分が高揚していたのかもしれない。夢中で食べて、夢中で話した。髪も洋服もバッグもすべてがジンギスカンの香りに染まる。ジンギスカンの香りを振り撒きながら、なんともしあわせな気持ちで帰った。
さして特別な過ごし方をしたわけではない、なんでもない1日。
けれども当たり前なんかじゃない。どんな1日も本当はそうなんだけれど。31年前のあの日、たくさんの方が亡くなった。身の回りの方の訃報にもたくさんたくさん触れて、ひび割れたマンションの中、家族3人で震えていた。今日、なんでもない1日を過ごせることの不思議。こうしていられることのありがたさ。あの日、大きな本棚から助けてくれた母のこと。
忘れない。忘れないよ。
※これはエッセイではなく、あくまで紙に書いているつもりの「日記」です。
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