あたまの中の摩訶不思議
もう2026年も10日目だ。
あの、元旦に出かけた初詣の最中の日の暮れ方も、頬で感じた空気の冷たさも、お賽銭やおみくじのために夫に貸してあげた小銭の枚数も、何もかもありありと思い出せるというのに、もうあれから1週間以上も経っているなんて、なにがなんだかわからないなあと思う。
朝の仕事を終えて、お昼には、月に1度のカウンセリングへ出かけた。「今日は風が強いらしい」と聞いていたものだから、何枚も何枚も重ね着をし、ユニクロの「極暖」というシリーズのレギンスまで履いて向かったのだけれど、さほど風も吹かず、寒すぎることもなかった。歩いていると少し汗ばむぐらいだ。「気候に合った服装」はすごく難しい。けれども晴れ晴れとしていて気持ちがよかった。
帰りにカフェで原稿を書く。15年ぐらい前のことについて書いてみるのだけれど、こちらもまた、ありありと思い出せる。ラーメンのスープの最後の1滴のうまさまでありありと。あれから15年が経ってるなんて、本当に本当になにがなんだかわからない。自分が何歳なのかよくわからなくなってくるほどだ。
自宅に戻ると夫が昼寝をしていたから、となりに寝そべって本を読んだ。すると、うとうととしてしまい、気づけば1時間ほど眠ってしまっていたようだった。改めて、読書に戻ると「さっき読んでいたはずのページ」が上手く思い出せず、また捲り直して読むことになる。10日前のことも、15年前のことも、まるで目の前で起きていることのようにありありと思い出せるのに、つい1時間前のことを思い出せない不思議。
思えば、「明日は朝起きていちばんに、洗濯機を回そう」といった決意も翌朝すっかり忘れていることがよくある。「夕方には洗濯物を取り込もう」と計画していたこともやっぱりよく忘れる。基本的に、洗濯のことは全く覚えられない。脳の構造とは本当に摩訶不思議だ。
また少し原稿を書いて、今日は早めに仕事を終える。週末だもの。このぐらいにしておこう。
夕飯を食べながら、何気なくNetflixの『timelesz project -REAL-』を見ていたら、懸命に練習をして汗をかいている人たちが「まだ足りない」と怒られたり、「まだ足りない」「こんなんじゃ足りない」と自らも話していて、厳しい世界なのだなあと挽肉を詰めすぎたピーマンの肉詰めを頬張りながらしみじみ思う。
木曜日の日記にも書いたけれど、やっぱりどの道も本当に過酷で。どんなにきらきらと見えても、とぼけているように見えても、澄ましたように見えても、みんな振り絞るように努力をしながら、落ち込みながら、反省しながら、溺れぬようにもがくように、なんとかかんとか前に進んでいるのだ。
甘えていては、楽をしていては、進めない。いつまで経っても。
週末らしからぬ高ぶる思いを持ったまま、お風呂に入って、眠った。わたしはこれでいいのか。けれども「“生活をする”ということもまたエッセイストの仕事である」と、年末に文筆家の土門蘭さんと話し合ったことを思い返し、改めて自分に深くそう言い聞かせる。お風呂で考えたこと、ベッドで眠る前に考えたことが、後の原稿につながる。嘘のようで、本当にそういうものなのだ。
どうか忘れませんように。洗濯のことは忘れてもいいから、日々この胸で深く思ったことは忘れませんように。
今朝干した洗濯物は、きっとまだ窓の向こうでゆらゆらと揺れている。
※これはエッセイではなく、あくまで紙に書いているつもりの「日記」です。
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